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中国拳法の幻想を斬る

回想

「千」と「唐」
“この手(空手)は、千年以上前の古代中国・唐時代の頃の拳法を起源とする”
これは、唐手第六代千歳強直が恩師であり五代継承者新垣世璋翁から受けた教えである。 千歳先生は、その中から「千年」と「唐時代」の言葉を選び取り、1920年に継承した「唐手」に、東恩納寛量・喜屋武朝徳両大家の下で修練を果たした 「那覇手」及び「首里手」の技法を加えて相補い、昭和21年熊本県菊池で「千唐流」の名称の下に流派を創始した。

私が千唐流を強烈に意識したのは、大阪万国博覧会(1970年)での演武準備の折、千歳先生の形の実演(*)を見た時からである。 若輩(初段)の目ではあったが、私はそれまで練習してきた他流派(剛柔流、松濤館)とは全く次元の違う別な空手(=唐手)を認識したのである。 その年20歳に成人した私は、アメリカ千唐流ドミトリチ先生の言葉を借りれば、“プロペラのような手の動き”に圧倒され、 千唐が持つ強い磁力に心が引き付けられてしまったわけである。
<*益留寛治先生(私の恩師))が唐手と言われた>



千唐流のタブー
私はその時以来「千唐流の唐手を目ざす」と心に誓い日々の稽古に励んだ。年月が過ぎ、少しは上達したかな?と考えるようになった中で私はある不可解な事実を知った。 それは“唐手は継承する家族(家系)の聖域”、“唐手は秘密の領域”の考え方が古参の指導者の間で暗黙裏に浸透していたことで、 一般の練習生は唐手の領域には入れない「暗黙の掟」という
タブーの存在があったのだ。

後年、私は内弟子から縁あって義理の息子となり、波乱に満ちた境遇に追い込まれていくわけだが、その元凶となったタブーについては、 もし別の機会があれば話をしたいと思う。

私が千歳先生の側について唐手の指導を受けたのは晩年期(78歳〜)約8年間である。 稽古は厳しく、円熟した雲を掴むような高難度の技群に翻弄され、十分に納得できる技の習得には試練と難儀が立ちはだかっていた時代であった。
質問する度に何回となく技を掛けられては地面、床を這い怒られ、小声で“××―”と呻きながらも稽古に励んだ。
修業の間、稽古内容を記録し、 技法の疑問点や修得できない技や思想については参考資料や文献を集めて学習し、考えそして工夫する稽古を自らに求めた。

1. 菅原月洲先生(合気道始祖植芝先生の高弟)から指導を受けた合気の取手術を導入する。

2. 複数の中国拳法を選択し技法の研究をする。例を挙げれば、少林拳系統の形意思想、太極拳の気の運行と思想、羅漢拳(仏教修行僧の拳法)と導引法等である。

3. チベット仏教の精神世界の勉強。これは千歳強直が著書の中で「唐手は仏教と共に発達してきた」と述べていることから、真の仏教であるチベット仏教を選択した。

4. 霊肉一体の至上境とは?神道と空手・四方拝の関連を考察する。

5. 空手の歴史については先生自身が空手史だったので直接伺って勉強した。


千歳先生の逝去後(1984年6月6日)、私は波乱の人生を歩む中で「唐手の火を消してはならない」と自らに言い聞かせ、上記の研究と考察を続けた。 下記がその成果を示す活動の足跡である。

@. 中国の友人である呉 林俊君の好意の企画で実現した「千唐流ルーツ探しの旅 (上海市同濟大学−嵩山少林寺−陳家溝(陳家太極拳)−黄檗山−福建省石竹山武術学校/ 1997年)」の各場所で交流演武を行う。

A. カナダ・トロント市での「千唐流空手道の叡智」をテーマにした単独演武会/2003年_Peter Giffen錬士の企画。 Tsuruoka sensei(Canada), Dometrich sensei(US Chitoryu)が見学に来てくれ、「おやじ(千歳先生)の動きに似てきたぞ!」と激励を受けた。

B. 「唐手ガンフー」に挑戦/2006年6月 春日部市。千歳先生が唐手継承者選出する審査会に参加した模様を聞いていたので、 それに倣い、 簡素ながらも会場を設定、儀式を含め約40分の演武に挑み達成することができた。

特定亜細亜国への怒り

私は、日本を取り巻く昨今の社会情勢にきな臭さと危機を感じながら、化学汚染物質PM2.5を含む灰黄色の大気に覆われた山々と街並みを眺める。 翌日も、自然の情緒ある霞(かすみ)とはまったく違う、胸が息苦しくなるような空気が漂う景色を。 次の日も……。 そして4月の始め、青く澄んだオーストラリアの空の下から熊本に帰った翌々日、風邪でもないのに鼻水と咳が出始め……ついに押えていた怒りの制御回線が切れてしまった。

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